プロフィール

吉地 恵 (きちぢ めぐみ)略歴

・1952年(昭和27年)9月5日 神戸生まれ
・1976年 東京教育大学(現 筑波大学)体育学部 卒業
・同年より、兵庫県県立高校教諭採用 保険体育科教諭
    柔道部顧問

柔道関係

現在、柔道七段 ・ 全日本柔道連盟Aライセンス審判員 日本体育協会 柔道 公認コーチ 指導者としては、全国大会1回、近畿大会 団体・個人合わせて10回出場



近況

現在、柔道七段 ・ 全日本柔道連盟Aライセンス審判員 日本体育協会 柔道 公認コーチ 指導者としては、全国大会1回、近畿大会 団体・個人合わせて10回出場

吉地 恵 (きちぢ めぐみ)写真

現在の活動

現在の活動

これまでのあゆみ

1952年9月5日、神戸市のあの有名なパルモア病院にて生まれる。

父、秋(おさむ)は当時川崎製鉄の部長まで行った生え抜きの鉄鋼マン、 母、和子(かずこ)は、多くの弟子を抱える、茶道、華道の師範という超ボンボンであった。

ただ、生活そのものがボンボン体質で学校行事、テストは小児喘息発症のためまともに参加できず、 悶々とした小学校生活を送る。 ただ、豪華な食生活のため、卒業時、64キロと超肥満児であった。 (芦屋市立宮川小学校) 甘えたで、運動のできない超肥満児を不安に感じた両親が不安に感じた両親が中学校で運動部入部を考えたが、 100mも走れなかったため、悩んだ末に考えたのが、屋内ででき、しかも走らされることのない柔道部入部であった。

ただ、ここで一生取り返しの付かないミスをする。 私は生まれつきの左利きであったが、たくさんの新入部員がいたため、二列に並ばされ「左で袖を持って右手でえりを持ちなさい」 と指導され、日本柔道史上初の左利きで右組の柔道家が生まれる。 左組が有利なため右利きでもあえて左組にさせるほどの中での柔道界の珍事であった。

おそらく、この時左組をしていれば全日本レベル、いや、オリンピックにでていたかもしれません・・・・ 運動が苦手であった自分であったが、体重に物を言わせてメキメキ頭角を現し、3年次、県大会の個人ベスト8に入賞する。 体重も95キロ。 高砂部屋から勧誘されるが、秀才だったため「国立大学工学部に進学し、エンジニアになりますので」と丁重にお断りする。 (芦屋市立精道中学校)

柔道の強い秀才が芦屋にいると評判になり、兵庫県進学率ナンバーワンの神戸高校から声がかかり たまたま、その年は受験者が定員割れという運にも恵まれ、合格。 ここから辛い高校生活が始まる。

今でも忘れられないのが、テストの成績が帰ってくるたびに、母親が2日ほど寝込んで、食べられなかったことが特に辛かった。 ただ柔道はメキメキ上達し、高2高3と国体選手に選出される。成績が3年次、450人中、443番(欠席4人)にも関わらず、 現役で東京教育大学体育学部武道学科(現筑波大学)に進学する。

こういうラッキーな事があると、すぐに調子に乗るボンボンがまた顔を出し、 1年次から選手候補でありながら、一度も大きな大会には出場できず、しかも、夜の歌舞伎町に吸い込まれ、留年と逝く最悪の大学生活を過ごす。

教員採用試験は、地元兵庫県の高校を受験するが、一発合格。 ここから34年の教員生活がスタートする。

柔道は大学での悔しさもあったので、自分なりに努力し、全国教員大会で銀メダル2回、銅メダル1回を獲得し、才能の素晴らしさを発揮。

ただ、教員としては、ちょっと変わっていて、おとなしくても、悪くても、集団から外れている生徒が大好きで、進んでそういった子どもと交流する。 そういう生徒と交流を深めれば深めるほど、校長や同僚に煙たがれていた。

プライベートでは、29歳で結婚。

素晴らしい2男1女に恵まれるが、家内の体調不安定から、長い離婚調停の末、離婚。 このときは、子供も相手方に行ってしまい、私の最悪の期間であったと思う。その後、カナダにて、今の家内との出会いがあり、子どもたちも全員も戻ってきて幸せな今がある。

教員生活も、定年まであと4年残した所で、アチーブメント・青木仁志社長と出会い、自分の使命に気づき、 2010年3月、早期退職。 現在は、私の基本理念、「役割を持たずに、この世に生を受けたものはいない」のもと、 年令に関係なく、元気の無い人たちの行き場所さがしのお手伝いをしている。

ここ数年で、「めぐちゃん先生」として、講演活動やマスメディアでメジャーになり、 もう一度教育現場に戻り、全国で先生方との勉強会を通じて、子どもたちを一人残らず行き場所を共に探し 元気にすることを確認しあう。 そして、元気な社会、国作りをして最終目標は地球を長生きさせることです。

 

お問い合わせはTEL:090-8987-3105